おはようございます。
まさみブログ「本気の扉」(11月13日)をお届けします。
◆理解すること、素直であること
久しぶりにG先生とお話する機会があって、人を育てるにあたって見込みのある人は、こちらが言ってることを理解できるか、素直か、このふたつのどちらかを持っていることですとおっしゃいました。
理解できれば理解に添って、その人を育てることができる。
理解ができなくても、素直だったら、その素直さによって、理解できるようにどこまでもこちらが手伝うことができる。
でも、どちらもない人は、無理ですよと。
理解できないのに素直じゃない人は、見込みがありませんから、側に寄らない方がよいっておっしゃいました。
神様から見ても、きっとそうなんじゃないかなって思います。
神様の世界というのは、私たちは見たこともないですし、学習によって感じたり考えたり、想像したりしているものですね。
でも大いなる宇宙の主という意識体があったからこそ、この私たちの世界もあるわけで。
人生の色々な出来事は、自分の努力と実力で回っているように錯覚しているけど、実は全部、神様が要所要所にいろんなものをご用意くださるので、そこに向かって歩いていったら欲しいものを頂けたり、出会いを頂けたり、進むべき方向へ、知らず知らずのうちにガイドしていただいて、進むことができているんですね。
それはべつに神様と呼ばなくたって、大いなるものの意志と呼んだっていい。
人智の及ばない存在と意識、力、というものによって私たちが動かされている。
すべてはその手のうちにある、ということを理解できるかどうかです。
または、そんなことは全く考えなくても、昔々のおじいちゃんやおばあちゃんが言ってたみたいに「お天道様が見ているからね」っていうひとことで、自分の心を律することができる素直さがあるかどうか、ということだと思うんですね。
それが人間対人間になって、ご指導いただくときでも全く同じで、G先生がおっしゃるように、理解できるか、素直か、どっちか。このどっちかがない人は無理、という言葉に行き着くのかなぁと思って、とても興味深く伺いました。
私自身は出会ったことにこだわってしまい、出会った以上、その両方がなくてもなんとか手伝いたいと思ってしまうのです。
それを、執着と呼ぶのか、単なるこだわりなのか、諦めないよさ、というふうに解釈もできるのか。
自分の立ち位置、やり方、考え方についても、そのひと言で思うところがありました。
いずれにしても、神様に置き換えたときに、ほんとに素直に「はい、わかりました」って言える自分でありたいと思いますし、どこまでもヨーガの勉強をもっともっともっと深めて、実感として、大いなるものの手のなかに、自分があり、ほんとにそのご意志のままに動かされているという、我欲のない生き方を目指したいなぁと思っています。
アメイジング・ヨーガ教室
シャンティパット主宰 紙や まさみ
2020年2月27日(木)朝のレッスンで