当たり前のことですが、「暴力を振るってはいけません」とよく言われます。
その場合の暴力というのは、肉体的な暴力を指していると思います。
最近では、言葉の暴力、それから上司などのパワー、圧力をかける暴力なども言われていますね。
でも、目に見えない「エネルギーの暴力を振るってはいけません」ということは、あまり一般的には言われていない気がします。
ヨーガを学びながら、自分の心と体を調教して、より健康で人のお役に立てるような人間になろうとする私たちは、エネルギーの暴力こそ、一番に考えるべきだと思うのです。
たとえば自分の具合が悪い時、歯がものすごく痛いとか、頭が割れそうだとか、お腹が痛くて腰が伸ばせないとか、そういう不調が自分の体に起きている時は誰でも、意識は自分のことだけになりますね。
そういう時は、誰かの足を踏んづけても気がつかない。
または、小さなことでくよくよしているとか、めそめそ泣いているような時も、やはりその周りにいる人たちのことはほとんど見えなくなっていて、自分のめそめそする世界にどっぷり浸っている。
こういう時は、人に暴力をふるっている時なんです。
エネルギーというのは見えませんけれど、確実に外へ向かって出ています。
そのエネルギーの種類、波の種類によって、そばにいる人たちに影響を与えているのです。
怒って頭にカリカリきてる人が電車の中に10人もいれば、その車両に乗った人は全員どこかでイライラの影響を受けている。
めそめそ、くよくよしてる人が10人いれば、その周りの人も必ず何となく元気がなくなる。
さっきまですごく調子よかったのに、何でかな、元気が落ちたなと理由なく感じることがありますよね。
人のエネルギーを奪うことは、暴力を振るっていることになると私は思います。
ですから、アーサナも、呼吸を使って宇宙のエネルギーを体の中へ取り込んでいくプラーナーヤーマも、瞑想にしても、その他の諸々のトレーニングの全てを、自分のためにやるという意識から人のためにやらせていただいているという意識になることが、とても重要です。
そういう気持ちになれると、特にプラーナヤーマでは、呼吸のクオリティに対して真剣になります。
息を吸ったり吐いたりするときの丁寧さと集中力。
エネルギーの変化がどう起きているのかということを、キャッチしようとするもう一つの回路が育っていくわけです。
私の師の、サッチャダルマさんもいつもおっしゃいます。
トレーニングは自分のためじゃない、人のためにやるんですよと。
自分から出てるエネルギーに責任を持って、よいエネルギーそのもので、人の役に立てるようになっていくのが、ヨーガを学ぶ者たちの目指す場所でもあるのです。
私はキューバでもインドでも、自分に食べる物が何もない中で、自分は食べないでその食べ物を私に分けてくれた人たちに出会いました。
そういう方々は、本当に稀有な存在ですね。心の底まで美しいのだと思います。
でも私達は本当に凡人ですから、どこか調子が悪ければ、自分だけの世界に入りやすい。
どんな時もよいエネルギーで、よいエネルギーを保ち続けることで、エネルギーの暴力を振るわない。
最低限の責任を取っていくことを、意識できるといいなと思います。
ヨーガ教室 シャンティパット主宰 紙や まさみ
2018年1月24日(水) 朝のクラスで